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2008年9月

練習曲 Island Etude  2008/9/27

〈陳懐思(チェン・ホァイエン)監督、2007年、台湾〉

シネマート六本木の「台湾映画祭2008」にて。どちらかというとドキュメンタリーっぽい映画なのだが、2007年の台湾映画興行収入第一位。監督のチェン・ホァイエンは、「悲情城市」のホウ・シャオシェン監督の撮影監督としても知られ、近年はCMの現場で活躍しており、本作は長年、構想をあたためていた初長篇監督作品という。主演の東明相(イーストン・ドン)は、美術デザイナーやモデルとしても活躍している。彼の絵は映画の中でも出てくるし、会場でも展示してあったけれど、ちょっとシュールな趣きのある人物のイラストが印象的。

大学卒業を真近に控えた青年の、自転車での台湾一周の旅。物語はそれにドキュメンタリーのようなタッチで寄り添う。高雄から時計と逆まわりに、東海岸を北上してゆく。映画は旅の二日目からはじまり、ラスト・シーンで旅の始まりのすがすがしい朝へと戻ってゆく。観終わったあと、旅の終わりの感傷を残さず、出発のときのワクワクした、前向きな気持ちのまま、現実に戻ってゆくことができる。

風を切って走る自転車の目線とスピードで捉えられた東海岸の風景の、なんて目に沁みることだろう。断崖がじかにストンと海へと下りてゆくような海岸沿いに国道が走り、長距離トラックや、スピードの速い車に遠慮しながら、自転車はひたすらに走り続ける。時にスコール、もくもくと移り変わる雲の動き、雨上がりに差す光。――

青年はこの旅で、ほとんどが一度かぎりの、その土地の人たちや旅人たちとの出会いと別れを繰り返してゆく。ある海辺の町で、小さな小学校の校舎で一夜を明かしたときのエピソードが、特によかった。彼は聴覚に障害があるという役柄なのだが、いつもギターを背負って移動している。その小学校で宿直をしていた女先生にギターを聞かせようとするが、弦が切れている。彼女は、「あなたは、身体に伝わる振動で音を聴いているのね」――というようなことを言って、彼がギターを弾くという行為を理解するのだが、この場面はとても素敵だ。彼女はやはり耳に障害のある自分の生徒のことをとても心配しているのだが、青年の姿を見てこう言う。「あなたを見てると、そんなに心配することないんじゃないかって、思えてきたわ――だって、私にはできないことが、あなたにはできる」

もちろん、映画には台湾の抱える歴史の暗い部分や、現在の台湾社会のひずみ、環境破壊までも描きこまれている。たとえば「サヨンの鐘」を日本語で歌うおばあさんたちのシーンは、異様だが、どこか哀切。工場から解雇されそうになっているおばさんたち(アマチュアの役者さんたち)が観光バスで本社に抗議に行く場面なんか、ちょっとユーモラスで笑える。私の世代の日本人にとって、台湾とは、二重の意味で「外国」だ。自分たちの経験していない過去。そして、いまを生きる台湾の現実は、私たちの思う以上に、めまぐるしいスピードで変化しているのだろう。

旅の途中、青年は祖父母の家に立ち寄って、ちょうど媽祖のお祭りの行列を眺めることになるのだが、このシーンは、おそらく台湾の人たちにとって、家族愛とか、郷土愛とか、ひょっとすると「台湾的なもの」に対する愛着に訴えるのだろう。

この映画での台湾の人たちの郷土愛にはどこかで共感もするし、決してまがまがしい「ナショナリズム」に繋げたりはしない。けれど、ひるがえって自分は日本に対して、こういう感情を持っているだろうか、と考えると、何か抑制が働いているような気がする。観終わってみると、ではあなたは自分の国、日本とどこまで向き合っていますか、という問いを感じさせる映画でもあるのだった。

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天安門  2008/9/16

〈シャンサ/大野朗子訳、ポプラ社、2008年〉

シャンサといえば、「高校生のためのゴングール賞」を獲った『碁を打つ女』(2001年)がデビュー作と思っていたが、この『天安門』はそれより以前、1998年に「ゴングール最優秀新人賞」を受賞している。

今年2008年、日本で芥川賞に選ばれた中国人作家・楊逸さんの『時が滲む朝』とどうしても比較して読んでしまったのたが、同じく「海外の中国人作家が、他言語で天安門事件を題材として描いた作品」でも、この鮮やかな個性の違いに、目を瞠った。

主人公は天安門事件のカリスマ的な女子学生リーダー、雅梅。軍に指名手配される第一級の罪人となった彼女は、北京の街のトラック運転手に匿われ、彼の両親の家がある遠い辺境の海辺へと逃れてゆく。社会と隔絶され、自然に抱かれた土地で平穏な日々を送る雅梅のもとに、やがて追手が迫る。彼女の捜索を命じられた若い軍人、趙の率いる兵士たちだった。……

長さとしては中篇に属する作品なのだろうが、まるで鏡と鏡が向かい合う迷宮のように、懐の深い奥行きを持つ小説だった。

天安門事件戒厳令下の北京を描く前半では、雅梅の身内でありながら、面倒に巻き込まれることを恐れて彼女を家に入れたがらない叔母や、保身のために指名手配犯である雅梅を密告する男など、中国の社会のある冷たさ、も描き込まれている。

「1968年12月23日生まれ」という明確なプロフィールが与えられている雅梅の日記――作中でひもとかれるその日記には、文革下の北京で知識人の両親の下で育った孤独な少女時代、そして優等生だった彼女が高校で出会った転校生との初恋と、ドロップ・アウト、そして彼の死が綴られている。それは、シャンサの自伝的エッセイでもある『午前四時、東京で会いますか?』(リシャール・コラス氏との往復書簡集)を彷彿とさせるものがあった。

個人的には、指名手配犯となった雅梅の実家を、兵士の趙が訪れる場面、そこで描かれる母親の造形が、特に胸に迫った。国共内戦・文革から天安門事件という歴史を生き抜いてきた知識人女性である彼女が語る半生と、自由を知った実の娘との、心の溝。「雅梅は飼い慣らすことができない鳥です――ああ、二度と帰ってこないでしょう!」

一方で、この小説の構成の大きな柱になっているのは、政治犯である雅梅と、それを追い詰める軍人の趙という相反する立場の二人の、邂逅の物語だった。これも1968年6月6生まれというプロフィールが与えられている趙は、貧しい農村に生まれ、幼くして軍隊に入れられた。他の世界を知らないまま育ち、「国家の意思が自分の意思」と考えるような青年。その彼が、雅梅の跡を追い、その日記を読むうちに、彼女に惹かれて少しずつ変わってゆく――それは自由な精神を持つ雅梅に導かれた、遅い自我の目覚め、といえるのかもしれない。

しかし圧巻は、雅梅が海辺の村から、さらに追手を逃れるために逃げ込んだ森の中での展開だった。彼女はそこで言葉を持たない野生児のような青年に導かれて、森の奥深くの寺に身を潜める。あたかも雅梅が伝説の女神になったかのように、彼女を追手から守るため、森は変幻自在に姿を変える。ここでの描写の色彩感覚は、画家でもあるシャンサの世界そのものだ。最後に雅梅の姿を森の中で遠く認めた趙。しかし彼女を捉えることはできない。双眼鏡の中ではじめて二人の目線が合い、物語は終わる。

「天安門」はフランス語のタイトルでは、固有名詞ではなく、「天の平安の門」という意味で書かれているという。かつて死を選んだ雅梅の恋人が、夢の中で彼女に言った言葉――「一つ一つの山の頂上には、天への門がある」にそのイメージは使われている。そして追手を逃れた森の寺の祭壇で、彼女は言う。「私はここを出ていきます!私の血が煮えたぎっているのです。……一番高い頂にある天の門まで行くつもりです……あの人が歌を歌いながら小径を歩いてくるのが見えるはずです。そして私は叫ぶのです。『私のところまで来て、天の門まで!』」

天安門事件当時、北京の高校生だったシャンサは、事件をきっかけにフランスへと旅立った。『天安門』は、彼女がフランス語で書いたはじめての小説となった。

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目撃!中国文化大革命――映画『夜明けの国』を読み解く(DVD付)  2008/9/7

〈土屋昌明編著、太田出版、2008年〉

1967年公開のドキュメンタリー『夜明けの国』(時枝俊江監督、岩波映画)。それは1966年8月から翌年1月にかけて、北京・ハルピン・長春・瀋陽・鞍山・撫順などで、文化大革命下の中国の人々の生活を記録したもの。67年10月の公開後、一週間で上映打ち切りに遭い、自主上映によって観客を増やしたという。

本書は、2006年7月に行われた文革40周年記念シンポジウム「イメージとしての『文化大革命』」を原型としている。第一部「見ながら考える」では、『夜明けの国』を見ながら、画面から何が読み取れるのかを、近年明らかになった資料や文献を駆使して語り合う。書籍版での参加者は、編者の土屋氏と前田年昭・鈴木一誌氏の二氏。

第二部「見たあとで考える」では、シンポジウムの参加者を中心とする執筆陣が、戦後ドキュメンタリー論、表象文化論、ゴダール論、大陸の文化大革命研究の動向など様々なアプローチからこの映画を分析する。「舌のない人間の様に――撫順炭鉱での沈黙」(中島隆博)/不実な鏡――『中国女』と『夜明けの国』の受容をめぐって(下澤和義)/中国人の文革観(印紅標)/教育革命いまだ成らず(前田年昭)/紅衛兵の「歩み」について――全共闘と文革(前田年昭・土屋昌明)。そして、本書には付録の『夜明けの国』DVDのほかシナリオも収録されている。

『夜明けの国』の映像を見てみた感想は、まず何ともいえない画面の清潔感(?)と、登場する人たち(とくに「刃物大王」の金さんとか)のキリっとした表情だろうか。この映画には文革の暴力的な側面が反映していない、という点については、問題点として本書の「はしがき」でも触れられている。清潔感というのは、そういう作為的に整えられた感じ、として、観る側に警戒心を呼び起こすかもしれない。しかし人々のあの顔は――役者でもない限り、演技では作れない。もちろん撮られているという意識、誇らしさはあるだろうけれど、なおかつ内面から溢れるものがある、と思わせる。文革とは、人々の魂にふれる革命だった、などというどこかで聞いた言葉に、取り込まれそうになってくる。

いちばん印象に残ったシーンといえば、「長春の国慶節」か。行進する無数の人波、翻る赤い旗、繰り返されるシュプレヒコール。これを観ながら、北京五輪の開会式を思い出していた。中国の人たちって、昔からこういうことが好きだったんだねえ、と一緒に観た家族と言ったものだった。(あの開会式の歴史絵巻では、近現代史がスッポリ抜け落ちていたから、なんだか開会式の一場面を見ているような気にさえなった)。

私自身は、毛沢東が死んだ年に生まれているので、文革当時の時代の雰囲気や、日本にあって文革に共鳴した世代の人たちの内面にも、入り込めないところがある。この違和感(理解不能感)は、「あとがき」で編者の土屋氏が書いている、現代の日本の大学生たちが、中国の学生たちによる反日デモに対してあらわにした「嫌悪感」と、どこかで繋がっているのだろう。「中国人の発想に強く存在している「大衆運動」について」、文革が原点とは言い切れないかも知れないが、その意味合いを考えるヒントを与えてくれる本かもしれない。

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