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2009年4月

チェ 28歳の革命/チェ 39歳 別れの手紙  2009/4/18

〈スティーヴン・ソダーバーグ監督/2008年/スペイン・フランス・アメリカ〉

唐突だけれど、ゲバラは今もヒーローであり続けるのに、なぜ毛沢東は(少なくとも今の日本では)格好良いとされないのだろうか?あまり人に聞いたことはないが、単純な疑問を持っている。

救いようのない言い方をしてしまえば、39歳という若さで亡くなったが故に、精悍なヴィジュアルを人の記憶に残したのだし、もし永らえていれば、権力者の常であるように、スキャンダルが悪印象に繋がったかもしれない。――そうは思っていたのだけれど、観終わってみて、少し考えさせられた。それは、革命家としての、というより人としての、“資質”の問題だ。

もちろん、ゲバラにしても毛沢東にしても、一観客・読者としては、様々な味付のほどこされた映画や書籍からその人のことを想像するほかない。けれど少なくともこの映画は、ゲバラ、という人を通じて、人間のある“資質”――ゲバラの言葉で言うならば、「世界のどこかで誰かが不正な目にあっているとき、痛みを感じることができること」の、鮮明な、ひとつの類型を見せてくれたような気がする。これは私の不勉強と、偏見にすぎないかもしれないが、毛沢東にあっては、「世界のどこかで…」という発想は、強くなかったのではないだろうか。どうなのだろう。

前後篇を通じて、ぐっときてしまったのは、ゲリラ(もっと大きく言えば、革命家)を育てる教育者としての、ゲバラの細心さと、厳しさだった。例えばメンバーの間でささいないがみ合いがあれば、本人たちを呼び出して誤解を解いたり、行軍の休憩中も本を読んで勉強するように諭したりする。それはゲリラのメンバーを単なる「兵士」として管理するのでなく、一人一人を人間として把握し、さらには革命家として成長してほしいと願っていたからではないだろうか。

しかしそれは、仲間意識からくる身内に向けられた温かさでは、決してない。任務を怠ったり、逃亡を企てたり、人民から略奪したりしたメンバーには、処刑を含めて容赦ない厳罰を下す。救うべき対象は「世界のどこかで不正な目にあっている人民」であって、自分たちがその使命のために死ぬことは覚悟している。

「革命家」という概念と、その理想の“資質”――潔癖なまでにそれを追求したゲバラだからこそ、英雄であり続けるのかもしれない。

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生とデザイン――かたちの詩学Ⅰ  2009/4/11 

〈向井周太郎著、中公文庫、2008年〉

「デザイン」というカタカナ語から、私が思い浮かべるものとは、何よりもまず、身のまわりにあふれる商品のために、誰かが(デザイナーと言われる人たちが)与えた色やかたち、図案のこと。その商品を売る企業にとって、より多くの利益に結びつくように、より多くの消費者がお金を出して手に入れたいと望むように意図されたもの。

こういうイメージが一般的なのかどうかは、よく分からない。けれど“design”という単語をカタカナ語でしか移し変えることができなかったように、おそらく日本人にとっては、著者が言うような「デザイン」の概念――形を通して文化を形成してゆく行為――を受け入れる下地は、今でも薄いのではないかと思う。「かくあれ」と理想を思い描く強い力で、可もなく不可もない現実を変えてゆく精神の力。

デザインとは「あるべき生活世界の形成である」と著者はいう。

――デザインという行為は、基本的に、人間の生命や生存の基盤と安全、日々の生活やくらし方、生き方や生きる方法、生きていくうえでの人々の関係やコミュニケーションや社会形成などにおよぶ、人の誕生から死までの生のプロセス全体と、生命の源泉としての自然環境や、生命あるものとの共生関係などを包容する「あるべき生活世界の形成」に深くかかわるものだ。(p269)

本書には、バウバウスをはじめてして、モダン・デザインを生み出したヨーロッパの文化的背景も紹介されている。何よりもまず、かの地の芸術家たちの、生命のあるべき姿を求める思索の力の強さに驚くとともに、そこに日本文化とはまったく「異質な」ありようを感じる。日本人にとって、こういう「デザイン」の概念とは、まず輸入し、少し頭でっかちに、手探りで実践してきたものではなかっただろうか。一方で、本書の内容ではないけれど、民芸運動をはじめ日本独自に「モノと生活との関係」について考えてきた歴史についても、読んでみたい気がする。

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