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2009年5月

名人は危うきに遊ぶ  2009/5/24

〈白州正子、新潮文庫、2007〉

鶴川の「武合荘」を訪ねてみて、まだ白州正子さんの本を何も読んだことがなかったので、後で購入した。

「武合荘」の印象は、(月並みな言い方しかできないが)「美しい」ものを見極める人になりたいものだと、思ったものだった。私には、正直に言って、「何を自分が美しいと思うのか」という確信が、ない。いつも外から与えられたイメージや、思い込みに、踊らされて、右往左往している。

たとえば、次のような一節に、打たれる。京都、普賢寺の、天平時代の十一面観音について述べた箇所。

「聖林寺の観音寺と瓜二つといわれ、学者によっては、このほうがすぐれているという人もある。私には専門的なことはわからないが、すぐれているというのはたぶん彫刻がしっかりしているというのだろう。だが、正にそのしっかりしすぎたところが、この仏像を堅苦しく見せており、瓜二つでいながら聖林寺の観音さまとはまったく違う印象を与える。宝瓶を握りしめた左手も、天衣を巻きつけた右手も、胸から腰へかけての膨らみも、どことなくぎこちない。それには補修のせいもあるかと思うが、聖林寺の像のようにのびのびとしたさわやかな感じに欠ける。……国宝だからといって無条件で認めてしまうのも愚かなことである。私たちはもっと自由でありたい。肩書きや世評にまどわされず、自由な立場でものを眺めたい」(「十一面観音について」)

長々と引用してしまったけれど、目の前のモノに触発される心の動きを、こんなふうに率直に自覚し、言葉にし、なおかつ人に伝える、ことができるようになりたいと思う。つまりは、対象とともに自分の心の動きに敏感である、ということなのだろうか。

もう一箇所、引くとすれば、「能の型について」の一節。「型」というものから自由になること、という最近の風潮から一歩身を引いて、さらに型にかえる、という精神の動き。それは保守的であることと紙一重を隔てた危うい立ち位置かもしれない。lけれど、外から与えられた権威ではない、長い年月をかけて内側から育まれてきた「型」の本質を考えさせる。

「現代人はとかく形式というものを嫌う。内容さえあれば、外に現れる形なんてどうでもいいではないか、などという。そこに人間の自由があると思っているらしいが、話は逆なのである。絵画にデッサンが必要であるように、形をしっかり身につけておれば、内容はおのずから外に現れる。時には自分が思っている以上のものが現れることもある」……

最後の一文に凄みがある。何百年と洗練され続けてきた技の力は、時にひとりの人間の能力を超える。謙虚になれ、とも読める。

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