パリ ルーブル美術館の秘密 2009/7/25
〈ニコラ・フィリベール監督/1990/フランス〉
美術館、という場所を私が好きだと思う理由は、どんなに貴重な作品でも、一対一で向き合える、その“特別感”――にある。たまたまその部屋に他の観客がいなくて、あわよくば監視員さえもいなくて、という状況であれば理想的なのだが、たとえ人ごみの中で押し合い、へしあいしながらでも、そんな特別感の片鱗は味わうことができる。なぜなら、人間の視覚や聴覚がそうであるように、私たちは自分の関心の外にある人やモノは、たとえ同じ時間・空間にあっても、意識の上から排除することができるのだから。
このドキュメンタリーは、ルーブル美術館で働くおよそ1200人もの人たち――学芸員、補修・修復係、案内係・美術品を設置する人たち、それに庭師、消防士、清掃員、救急隊員まで――の仕事ぶりをフィルムに収めたもの。淡々と映像と、登場人物たちの会話に語らせて、作り手の説明的なナレーションはない。
監督のニコラ・フィリベールは、この作品を撮るさいに二つの原則に拠ったという。ひとつは、「自分の見るものに対し優先的な証人であるような感じを観客に持たせるため、訪問者は写さないこと」。もう一つは、「感慨深く、あるいは学識豊かに作品そのものを映し出したりしないこと」。この映画の主人公は、ルーブルという巨大な舞台装置を動かす仕事、それに携わる人々だからだ。「同時代人に作品を見せ、それを最もいい条件で次の世代のために保存する使命を帯びた人間集団」(パンフレットより)。
ところで、この“ドキュメンタリー”という手法と、人の視覚の働きとは、何と似ているのだろうか。どんなにニュートラルに映し出されたように見える映像でも、そこには必ず、意図的に切り取られたもの、強調されたものがある。それを思うと、このフィルムは、人がモノを「見る」という行為についての、ひとつの比喩なのかもしれない。
ドキュメンタリーという手法について、監督はこう語っている。「――「真実の」人間と状況を撮るという口実のもとに、多くの人が自分に見えるものが現実だと思っているわけですが、彼らはすべての伝達行為がすでに解釈行為だということを忘れている。――この偏見が、映画としては下のものとして見下し、物語を語るドキュメンタリーの能力をすべて暗黙のうちに否定してしまっている」。
印象的な場面がある。おそらく高いポストにある学芸員が、他のスタッフに絵の配列方法について、自身の考え方というか、哲学のようなものを語る場面。あまりに多くの作品を並べても、観客はそのすべてを見ることはできないかもしれない。しかしそれで良いのだ、美術館とは、何度でもたちかえって確認できるテキスト(という言葉だったか忘れたが)のようでなくてはならない。
言うまでもなく、美術館の壁にかけられた時点で、最初の編集は行われている。しかしそれをさらに自らの目で見、クローズアップする自由を、より多く観客に保証したいのだ、という意味のようにも思える。
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