<?xml version="1.0" encoding="utf-8"?>

<rdf:RDF
  xmlns:rdf="http://www.w3.org/1999/02/22-rdf-syntax-ns#"
  xmlns:dc="http://purl.org/dc/elements/1.1/"
  xmlns:sy="http://purl.org/rss/1.0/modules/syndication/"
  xmlns:admin="http://webns.net/mvcb/"
  xmlns:content="http://purl.org/rss/1.0/modules/content/"
  xmlns:cc="http://web.resource.org/cc/"
  xmlns="http://purl.org/rss/1.0/">

<channel rdf:about="http://kotoba-hiroi.cocolog-nifty.com/blog/">
<title>読書録</title>
<link>http://kotoba-hiroi.cocolog-nifty.com/blog/</link>
<description>なんでもない日々の読書と、映画・音楽から</description>
<dc:language>ja-JP</dc:language>
<dc:creator></dc:creator>
<dc:date>2009-09-22T21:53:48+09:00</dc:date>
<admin:generatorAgent rdf:resource="http://www.typepad.com/" />


<items>
<rdf:Seq><rdf:li rdf:resource="http://kotoba-hiroi.cocolog-nifty.com/blog/2009/09/2009922-3308.html" />
<rdf:li rdf:resource="http://kotoba-hiroi.cocolog-nifty.com/blog/2009/08/2009815-5cf7.html" />
<rdf:li rdf:resource="http://kotoba-hiroi.cocolog-nifty.com/blog/2009/07/2009725-223f.html" />
<rdf:li rdf:resource="http://kotoba-hiroi.cocolog-nifty.com/blog/2009/07/2009718-532b.html" />
<rdf:li rdf:resource="http://kotoba-hiroi.cocolog-nifty.com/blog/2009/07/2009611-31c0.html" />
<rdf:li rdf:resource="http://kotoba-hiroi.cocolog-nifty.com/blog/2009/06/q2009612-999c.html" />
<rdf:li rdf:resource="http://kotoba-hiroi.cocolog-nifty.com/blog/2009/05/2009524-50eb.html" />
<rdf:li rdf:resource="http://kotoba-hiroi.cocolog-nifty.com/blog/2009/04/2839-2009418-ef.html" />
<rdf:li rdf:resource="http://kotoba-hiroi.cocolog-nifty.com/blog/2009/04/2009411-acac.html" />
<rdf:li rdf:resource="http://kotoba-hiroi.cocolog-nifty.com/blog/2009/03/2009320-ed57.html" />
</rdf:Seq>
</items>

</channel>

<item rdf:about="http://kotoba-hiroi.cocolog-nifty.com/blog/2009/09/2009922-3308.html">
<title>恋するコンピュータ　　2009/9/22</title>
<link>http://kotoba-hiroi.cocolog-nifty.com/blog/2009/09/2009922-3308.html</link>
<description>〈黒川伊保子、筑摩文庫、2008年〉 この本がすでに10年前に出ていたことに気付...</description>
<content:encoded>&lt;p&gt;〈黒川伊保子、筑摩文庫、2008年〉&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;この本がすでに10年前に出ていたことに気付かなかったのは、迂闊だった。（初版はちくまプリマーブックス、1998年）。何か自分の狭い思考方法に行き詰まって息苦しくなったとき、この本のことを思い出したかった。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;著者は「ナレッジ・エンジニア」――知識を扱う技術者、と自らのことを定義する。その仕事とは、「ものごとの有り様と成り立ちを見つめ、それを知識として扱うための枠組みを設計すること」――と言われても、純文系の私にはイメージが湧きにくいのだが、もう少し分かりやすい言葉を拾うならば、「人間の思いや行いも含めた一連の系を明文化していく」ことだという。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;そのプロフィールじたいが面白い。理学部物理学科卒業後、コンピュータメーカーで人工知能研究に従事。2003年に（株）感性リサーチを設立、翌年、脳機能論とAIとの集大成による語感分析法を発表、感性分析の第一人者となる、とある。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;タイトルにもある「恋するコンピュータ」――著者がメーカー勤務時代に作ろうとしていた人工知能とは、いつも人間の側にいて、私たちのしぐさや視線や表情を優しく見つめ続けるもの。単純なオーダーを実行するだけでなく、状況に応じてどのような対処が望まれるのかを推論しつつ、なめらかに行動するコンピュータ。あたかも、ユーザーである人間に恋するように。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;文庫版の出版にあたって増補された「恋するコンピュータ　十年後」にあるとおり、このようなコンピュータは例えば、携帯電話のゲームの中などではすでに現実のものに近付いている。人間の感性とはまるで別世界の、硬直したシステムのように思えるコンピュータも、当たり前のことかもしれないが、まずそれを作る人の思いありき、なのだった。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;著者はその後、「脳とことば」の研究を進めた結果、独自の語感分析法を発表するのだが、この本にもそのエッセンスが織り込まれている。著者によれば、「語感」の正体とは、発音体感である。たとえば、「K」の音は、それを発するときの喉や口の強い緊張感から、硬さ、強さ、スピード感、ドライなどの質を持っているという。「語感」というものの正体が、「聴こえ」のイメージでなく「発音体感」であると気付いたこと、それを口腔内物理効果として客観指標に置き換えることによってシステム化したこと――それは、人生最大の発見となったという。この分析法は、子どもの名付けからビジネス界における商品の命名まで、幅広く応用できる。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;この本のもうひとつの魅力は――それは、人工知能の開発に携わってきた著者が、自ら母親となって、生きた「知識獲得エンジン」である子どもの成長をみつめ、日々の発見を生き生きと記録していることだろう。こんな過程に立ち会えるのならば、産むことから、逃げたくはない、恐れたくはない、そう思わせられる。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;/p&gt;</content:encoded>


<dc:subject>書籍・雑誌</dc:subject>

<dc:creator>ことばひろい</dc:creator>
<dc:date>2009-09-22T21:53:48+09:00</dc:date>
</item>
<item rdf:about="http://kotoba-hiroi.cocolog-nifty.com/blog/2009/08/2009815-5cf7.html">
<title>自分の仕事をつくる　　2009/8/15</title>
<link>http://kotoba-hiroi.cocolog-nifty.com/blog/2009/08/2009815-5cf7.html</link>
<description>〈西村佳哲著、ちくま文庫、2009〉 数ヶ月前にいちど読んで、かなり納得もし刺激...</description>
<content:encoded>&lt;p&gt;〈西村佳哲著、ちくま文庫、2009〉&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;数ヶ月前にいちど読んで、かなり納得もし刺激も受けたはずなのに、いま再びページを開いてみると、見事に読んだ内容が頭の中から消えていた。そのことに驚いたのたが、それについては最後に。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;著者の西村佳哲さんは、自称「働き方研究家」。建築分野の仕事を経て、デザインレーベル「リビングワールド」代表。つくる、教える、書く、という三種類の仕事を手がけるという。本書には、建築・出版物・衣類・食品など、ものを作る現場で働く人たちへのインタビューが収められている。初出は『デザインの現場』など。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;読みなおしてみて、気になるところをピックアップしてみると、&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;「コミュニケーションっていうのは、喋ることじゃあない」「本人の「解像度」の高さが、その人のアウトプットの質を決める」（八木保氏、デザイナー）&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;「「時間」は、仕事場の立地を選択することで、意識的に作り出された」「経済価値と、その仕事の質的価値とは、ベクトルの向きが最初から異なっている」（町山一郎氏、象設計集団）&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;とか、切りがないのだが、まるで警句のように鋭い言葉を拾いあげた取材と文章の力もさることながら、この小さな文庫本の隅々まで行き届いた配慮のこまやかさも、多くのことを語っているように思う。たとえばページの下段の注、巻末の索引、参考文献など。それは著者が言うような、「こんなもんでいいでしょ？」的ではない仕事の姿が、実際に本のカタチとして現れているのだろう。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;ところで、なぜ、わずか数ヶ月で私はこの本のことを忘れてしまった――のだろうか。私にとって、現実の仕事の現場と、この本に書かれたこととは、接点の持ちようがなかった、ということだろうか。著者が言うように、「（「自分の仕事をつくる」という）この価値観は、そうでない人、つまり社会的な要請への適合に明け暮れているような人のあり方を、あまり認めようとしない」ためだろうか。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;たぶんそうではない。「こんなもんでいいでしょ？」的な働き方と、その結果として生み出されたモノが、自分自身をも、人をも少しずつ損なってゆくことを、私を含めて、本書を手に取る人は気付いているだろう。けれどそれはただちに生命を損なうものではないために、「本当に実現したい働き方」のビジョンを持ち続けるには、強い精神の力が必要なのだ。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;可もなく不可もない現実を突き抜けて、「かくあれ」と理想を求めてゆく精神の力。ここで思い出すのは、「design」という言葉そのものだ。向井周太郎氏は『生とデザイン』の中で、デザインとは、「あるべき生活世界の形成」であると書いた。モノに現れるかたちを造り上げることは、人の生活の根幹にかかわる仕事だったのだ。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;自分の仕事をつくり、働き方を選びとるということ。この本では具体的なモノを作る人たちが取り上げられているけれど、書かれていることは、どんな仕事に就いている人にも関係があるだろう。&lt;/p&gt;</content:encoded>


<dc:subject>書籍・雑誌</dc:subject>

<dc:creator>ことばひろい</dc:creator>
<dc:date>2009-08-26T06:18:40+09:00</dc:date>
</item>
<item rdf:about="http://kotoba-hiroi.cocolog-nifty.com/blog/2009/07/2009725-223f.html">
<title>パリ ルーブル美術館の秘密　　2009/7/25</title>
<link>http://kotoba-hiroi.cocolog-nifty.com/blog/2009/07/2009725-223f.html</link>
<description>〈ニコラ・フィリベール監督/1990/フランス〉 美術館、という場所を私が好きだ...</description>
<content:encoded>&lt;p&gt;〈ニコラ・フィリベール監督/1990/フランス〉&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;美術館、という場所を私が好きだと思う理由は、どんなに貴重な作品でも、一対一で向き合える、その“特別感”――にある。たまたまその部屋に他の観客がいなくて、あわよくば監視員さえもいなくて、という状況であれば理想的なのだが、たとえ人ごみの中で押し合い、へしあいしながらでも、そんな特別感の片鱗は味わうことができる。なぜなら、人間の視覚や聴覚がそうであるように、私たちは自分の関心の外にある人やモノは、たとえ同じ時間・空間にあっても、意識の上から排除することができるのだから。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;このドキュメンタリーは、ルーブル美術館で働くおよそ1200人もの人たち――学芸員、補修・修復係、案内係・美術品を設置する人たち、それに庭師、消防士、清掃員、救急隊員まで――の仕事ぶりをフィルムに収めたもの。淡々と映像と、登場人物たちの会話に語らせて、作り手の説明的なナレーションはない。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;監督のニコラ・フィリベールは、この作品を撮るさいに二つの原則に拠ったという。ひとつは、「自分の見るものに対し優先的な証人であるような感じを観客に持たせるため、訪問者は写さないこと」。もう一つは、「感慨深く、あるいは学識豊かに作品そのものを映し出したりしないこと」。この映画の主人公は、ルーブルという巨大な舞台装置を動かす仕事、それに携わる人々だからだ。「同時代人に作品を見せ、それを最もいい条件で次の世代のために保存する使命を帯びた人間集団」（パンフレットより）。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;ところで、この“ドキュメンタリー”という手法と、人の視覚の働きとは、何と似ているのだろうか。どんなにニュートラルに映し出されたように見える映像でも、そこには必ず、意図的に切り取られたもの、強調されたものがある。それを思うと、このフィルムは、人がモノを「見る」という行為についての、ひとつの比喩なのかもしれない。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;ドキュメンタリーという手法について、監督はこう語っている。「――「真実の」人間と状況を撮るという口実のもとに、多くの人が自分に見えるものが現実だと思っているわけですが、彼らはすべての伝達行為がすでに解釈行為だということを忘れている。――この偏見が、映画としては下のものとして見下し、物語を語るドキュメンタリーの能力をすべて暗黙のうちに否定してしまっている」。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;印象的な場面がある。おそらく高いポストにある学芸員が、他のスタッフに絵の配列方法について、自身の考え方というか、哲学のようなものを語る場面。あまりに多くの作品を並べても、観客はそのすべてを見ることはできないかもしれない。しかしそれで良いのだ、美術館とは、何度でもたちかえって確認できるテキスト（という言葉だったか忘れたが）のようでなくてはならない。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;言うまでもなく、美術館の壁にかけられた時点で、最初の編集は行われている。しかしそれをさらに自らの目で見、クローズアップする自由を、より多く観客に保証したいのだ、という意味のようにも思える。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;/p&gt;</content:encoded>


<dc:subject>映画・テレビ</dc:subject>

<dc:creator>ことばひろい</dc:creator>
<dc:date>2009-07-31T22:52:27+09:00</dc:date>
</item>
<item rdf:about="http://kotoba-hiroi.cocolog-nifty.com/blog/2009/07/2009718-532b.html">
<title>ロシア文学の食卓　　2009/7/18</title>
<link>http://kotoba-hiroi.cocolog-nifty.com/blog/2009/07/2009718-532b.html</link>
<description>〈沼野恭子、NHKブックス、2009〉 食から読む文学ガイド、というものを、この...</description>
<content:encoded>&lt;p&gt;〈沼野恭子、NHKブックス、2009〉&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;食から読む文学ガイド、というものを、このところ何となく気にしながら書店の棚を見ているのだが、これはロシア文学・食文化ともに造詣の深い著者の手になるだけに、読み応えがある。最近の『カラマーゾフ…』新訳のヒットでロシア文学の読者も増えているなか、企画としても美味しいのではないだろうか。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;ところで、「はじめに」で触れられているように、ロシア文学は必ずしも伝統的に食事の場面がたくさん描かれているわけではないという。「むしろ精神的なものを重んじ物質的なものを疎んじる禁欲的な傾向が強く、食事や料理といった物質的・肉体的なものを下品と見なしてきた」（p13）という。本書では、目次に記されているだけで20の作品を取り上げ、その中に描かれた食事の情景を紹介している。貴重な例であるならば、作中でその食事の場面が果たす役割を考えてみるのは、作品の読解にとっても重要な作業になるだろう。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;構成も心憎い。全体は6章に分かれ、前菜・スープ（第一の料理）、メイン料理（第二の料理）、サイドディッシュ、デザート、飲み物、とコース料理を順番に味わってゆくような体裁になっている。各章は、たとえば「第一章　前菜」は、&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;[１]「つまみ」のピロシキ――ゴーゴリ『死せる魂』&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;[2]ブリヌィにイクラで舌鼓――チェーホフ「おろかなフランス人」&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;[3]フレンスブルグ産の高級生牡蠣――レフ・トルストイ『アンナ・カレーニナ』&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;のように、ひとつのメニューに一作品を配するかたちで、食べ物を切り口に作品世界の深みを味わうことができるようになっている。もちろん、それぞれに該当箇所の訳文が効果的に引用されている。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;印象深かったものの一つは、「第二章　スープ」の[3]氷を添えたボトヴィーニヤ――ブーニン「日射病」。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;イワン・ブーニン（1870-1953）という亡命作家の「日射病」では、ゆきずりの男女の逢瀬のあと、ひとり残された男が、女の後を追って真夏の街を歩き回る。しかし彼女の姿はもはやない。落胆してホテルに戻って彼が口にするのが、この冷たい「ボトヴィーニヤ」である。それは「冷たいスープの女王」とも言われ、ロシアの国民的な清涼飲料である「クワス」をベースに、キュウリやビーツ、魚などを入れたもので、氷を足しながら食べるのがよいとされるという。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;燃えるような逢瀬のひとときと、その後のやるせない孤独を際立たせるのが、この冷たいスープの役割なのだ。&lt;/p&gt;</content:encoded>


<dc:subject>書籍・雑誌</dc:subject>

<dc:creator>ことばひろい</dc:creator>
<dc:date>2009-07-20T21:09:27+09:00</dc:date>
</item>
<item rdf:about="http://kotoba-hiroi.cocolog-nifty.com/blog/2009/07/2009611-31c0.html">
<title>迫るアジア　どうする日本の研究者　　2009/7/11</title>
<link>http://kotoba-hiroi.cocolog-nifty.com/blog/2009/07/2009611-31c0.html</link>
<description>〈毎日新聞科学環境、講談社文庫、2009年〉 文庫オリジナルの「理系白書」の一冊...</description>
<content:encoded>&lt;p&gt;〈毎日新聞科学環境、講談社文庫、2009年〉&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;文庫オリジナルの「理系白書」の一冊。「毎日新聞科学環境部」というのは、1996年に科学部から改組されたもので、先端科学・技術から医学・生命科学・原子力・宇宙・地震・火山・環境問題までカバーし、社内のシンクタンク的な機能も兼ね備えるという。本書は新聞上に掲載した記事をベースにしているが、大幅に加筆しており、書き下ろしに近い。なおシリーズの他の2冊は『理系白書　この国を静かに支える人たち』『「理系」という生き方』。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;中国に関する社会科学分野の書物は、政治・経済のものがほとんど。それに最近の環境や食品問題、軍事関係のものも出てきたが、いわゆる「理系」の書物は非常に数が少ないと言っていいのではないだろうか。本書は広く一般読者向けではあるが（そして日本をふくむアジア――中国・韓国・シンガポールを対象としているが）、中国の科学技術の現在を知る上で、貴重な一冊だと思う。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;「まえがき」では、日本人のノーベル物理学賞・科学賞の受賞のニュースに、「科学技術に強い日本」との自信が生まれた世論の陰で、次のような問題意識を投げかけている。「この強さは本物なのだろうか？――背後にヒタヒタと迫るアジア各国の足音、明確な戦略が見えない日本政府の科学技術政策、日本を後にする優秀な人材――について知ると、ニッポンは強い」とは言い切れないのではないか」と。それを検証するため、本書は中国や韓国など急成長をとげたアジアの科学技術の現場を取材し、日本に欠けているものや制度を浮き彫りにしている。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;目次は次のとおり。１、日本発「夢の新万能細胞」のこれから／2、日本を猛追するアジア／3.人材を生かさない日本／4.進む道を見失った日本の戦略／5.日本は反撃できるのか／6.これからの日本のものづくり&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;中国の事情は第2章に比較的詳しい。アジアの自然科学分野のノーベル賞受賞者は、24名のうち、日本の13名の次に中国2名、中国系米国人が4名を占める。現在、中国政府は海外にいる優秀な中国人研究者の目を中国に向けさせ、研究水準の向上に貢献してもらうため、「百人計画」と称して海外の研究者を呼び戻しており、1994年以来、1500人が帰国したという。2006年から5年間の科学技術政策を定めた「第11次5か年計画」は、「人材強国」を掲げている（p76）。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;また、中国の政府主導ベンチャー「孵卵器」と「海亀政策」、2006年から15年間の科学技術振興計画「国家中長期科学技術発展計画」（p92-95）、日本に留学する中国人留学生（2007年度の全留学生の60.2％を占める）の活躍（p97-98）なども紹介されている。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;特に興味深いのは、発表論文集の増加に関する記述。1997-2001年の5年間の発表論文数と、2003-2007年の発表論文数を比較すると、日本は6.4％増なのに対して、中国は170.6％。日本がリードしている被引用数についても、日本の32％増に対し、中国は390％と大幅な伸びを記録しているという（p99）。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;そのほか、「世界の工場」からいかに独自性、革新性のあるイノベーションをとげるかの問題、論文のねつ造や改ざんなどの問題のほか、研究資金の配分の変化（競争的資金から基礎研究資金への転換）、中国企業に認められない日本の株式市場、コピー商品の製造によって蓄積された技術がやがて本物の技術力に成長しつつある現状（p97-113）についても触れられている。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;/p&gt;</content:encoded>


<dc:subject>書籍・雑誌</dc:subject>

<dc:creator>ことばひろい</dc:creator>
<dc:date>2009-07-19T00:38:17+09:00</dc:date>
</item>
<item rdf:about="http://kotoba-hiroi.cocolog-nifty.com/blog/2009/06/q2009612-999c.html">
<title>故郷/阿Q正伝　　2009/6/12　　</title>
<link>http://kotoba-hiroi.cocolog-nifty.com/blog/2009/06/q2009612-999c.html</link>
<description>〈魯迅、藤井省三訳、光文社古典新訳文庫、2009年〉 待ちに待った、というべきか...</description>
<content:encoded>&lt;p&gt;〈魯迅、藤井省三訳、光文社古典新訳文庫、2009年〉&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;待ちに待った、というべきか、古典新訳文庫のはじめての中国文学作品は、魯迅。いったい、日本の読者は魯迅の作品、またその人に対して、どういう距離を取ればいいのだろう――ということを、今回改めて感じた。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;このシリーズの中国文学の最初の作品になったように、日本人にとって魯迅の存在は大きい。本国でも押しも押されぬ国民的作家だということもあるが、「藤野先生」でよく知られるように、日本に長く滞在し、かかわりが深いことが、より親近感を抱かせていることは明らかだろう。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;けれど、その近さは、「抜き差しならぬ」近さなのだ。その時代の中国のエリートであった魯迅が日本に留学し、作家としても日本の作家から多大な影響を受けている（例えば、訳者による「解説」では、芥川龍之介からの影響を指摘している）ということは、どういうことか。それは、大きな言い方をしてしまえば、中国と中国文学の近代化そのものが、当時の日本と切っても切れない関係にあった、ということだ。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;「抜き差しならぬ近さ」――どうやら日本人はその近さに寄りかかりすぎていたらしい。訳者は、従来の竹内好をはじめとする訳文が、魯迅を「土着化」したとする。その原因の最たるものとして、竹内訳が魯迅の本来の屈折した長文の迷路のような思考を、原文の数倍の句点（。）を用いることによって切断したと指摘する。「伝統と近代のはざまで苦しんでいた魯迅の屈折した文体を、竹内氏は戦後の民主化を経て高度経済成長を歩む日本人の好みに合うように、土着化・日本化させているのではないか」（p332）としている。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;今回の新訳では、中国の文学革命における句読点の意義をふりかえり、原文の句点を忠実に訳すとともに、竹内訳で目立った意訳も改めたという。より「真の魯迅像を忠実に再現」（帯のキャッチ）したという謳い文句。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;この文庫には、魯迅自身の日本語による創作「兎と猫」も収録されているのだが、たしかにこには、「、」を多用して長々と文章を繋いでいく文体が残っている。魯迅が句読点というものをどう考えていたのか、その息遣いに触れる思いがする。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;ところで、今回収録された作品の中では、「阿Q正伝」が抜群に面白い。ひそかに考えるに、訳者の文体は、ドタバタ喜劇（悲喜劇）に合っている。そして、こちらはしっとりとした叙情的な文章だが、「百草園から三味書屋へ」――この五月、発売されたばかりの本書をもって、紹興の魯迅故居を訪ねた。この一篇に描かれた子供時代の魯迅の姿がひょっこり現れてきそうな、その庭の変わらぬ静かなたたずまいは、ずっと忘れないだろう。&lt;/p&gt;</content:encoded>


<dc:subject>書籍・雑誌</dc:subject>

<dc:creator>ことばひろい</dc:creator>
<dc:date>2009-06-12T22:49:02+09:00</dc:date>
</item>
<item rdf:about="http://kotoba-hiroi.cocolog-nifty.com/blog/2009/05/2009524-50eb.html">
<title>名人は危うきに遊ぶ　　2009/5/24</title>
<link>http://kotoba-hiroi.cocolog-nifty.com/blog/2009/05/2009524-50eb.html</link>
<description>〈白州正子、新潮文庫、2007〉 鶴川の「武合荘」を訪ねてみて、まだ白州正子さん...</description>
<content:encoded>&lt;p&gt;〈白州正子、新潮文庫、2007〉&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;鶴川の「武合荘」を訪ねてみて、まだ白州正子さんの本を何も読んだことがなかったので、後で購入した。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;「武合荘」の印象は、（月並みな言い方しかできないが）「美しい」ものを見極める人になりたいものだと、思ったものだった。私には、正直に言って、「何を自分が美しいと思うのか」という確信が、ない。いつも外から与えられたイメージや、思い込みに、踊らされて、右往左往している。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;たとえば、次のような一節に、打たれる。京都、普賢寺の、天平時代の十一面観音について述べた箇所。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;「聖林寺の観音寺と瓜二つといわれ、学者によっては、このほうがすぐれているという人もある。私には専門的なことはわからないが、すぐれているというのはたぶん彫刻がしっかりしているというのだろう。だが、正にそのしっかりしすぎたところが、この仏像を堅苦しく見せており、瓜二つでいながら聖林寺の観音さまとはまったく違う印象を与える。宝瓶を握りしめた左手も、天衣を巻きつけた右手も、胸から腰へかけての膨らみも、どことなくぎこちない。それには補修のせいもあるかと思うが、聖林寺の像のようにのびのびとしたさわやかな感じに欠ける。……国宝だからといって無条件で認めてしまうのも愚かなことである。私たちはもっと自由でありたい。肩書きや世評にまどわされず、自由な立場でものを眺めたい」（「十一面観音について」）&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;長々と引用してしまったけれど、目の前のモノに触発される心の動きを、こんなふうに率直に自覚し、言葉にし、なおかつ人に伝える、ことができるようになりたいと思う。つまりは、対象とともに自分の心の動きに敏感である、ということなのだろうか。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;もう一箇所、引くとすれば、「能の型について」の一節。「型」というものから自由になること、という最近の風潮から一歩身を引いて、さらに型にかえる、という精神の動き。それは保守的であることと紙一重を隔てた危うい立ち位置かもしれない。ｌけれど、外から与えられた権威ではない、長い年月をかけて内側から育まれてきた「型」の本質を考えさせる。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;「現代人はとかく形式というものを嫌う。内容さえあれば、外に現れる形なんてどうでもいいではないか、などという。そこに人間の自由があると思っているらしいが、話は逆なのである。絵画にデッサンが必要であるように、形をしっかり身につけておれば、内容はおのずから外に現れる。時には自分が思っている以上のものが現れることもある」……&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;最後の一文に凄みがある。何百年と洗練され続けてきた技の力は、時にひとりの人間の能力を超える。謙虚になれ、とも読める。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;/p&gt;</content:encoded>


<dc:subject>書籍・雑誌</dc:subject>

<dc:creator>ことばひろい</dc:creator>
<dc:date>2009-05-24T05:41:13+09:00</dc:date>
</item>
<item rdf:about="http://kotoba-hiroi.cocolog-nifty.com/blog/2009/04/2839-2009418-ef.html">
<title>チェ　28歳の革命／チェ　39歳 別れの手紙　　2009/4/18</title>
<link>http://kotoba-hiroi.cocolog-nifty.com/blog/2009/04/2839-2009418-ef.html</link>
<description>〈スティーヴン・ソダーバーグ監督／2008年／スペイン・フランス・アメリカ〉 唐...</description>
<content:encoded>&lt;p&gt;〈スティーヴン・ソダーバーグ監督／2008年／スペイン・フランス・アメリカ〉&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;唐突だけれど、ゲバラは今もヒーローであり続けるのに、なぜ毛沢東は（少なくとも今の日本では）格好良いとされないのだろうか？あまり人に聞いたことはないが、単純な疑問を持っている。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;救いようのない言い方をしてしまえば、39歳という若さで亡くなったが故に、精悍なヴィジュアルを人の記憶に残したのだし、もし永らえていれば、権力者の常であるように、スキャンダルが悪印象に繋がったかもしれない。――そうは思っていたのだけれど、観終わってみて、少し考えさせられた。それは、革命家としての、というより人としての、“資質”の問題だ。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;もちろん、ゲバラにしても毛沢東にしても、一観客・読者としては、様々な味付のほどこされた映画や書籍からその人のことを想像するほかない。けれど少なくともこの映画は、ゲバラ、という人を通じて、人間のある“資質”――ゲバラの言葉で言うならば、「世界のどこかで誰かが不正な目にあっているとき、痛みを感じることができること」の、鮮明な、ひとつの類型を見せてくれたような気がする。これは私の不勉強と、偏見にすぎないかもしれないが、毛沢東にあっては、「世界のどこかで…」という発想は、強くなかったのではないだろうか。どうなのだろう。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;前後篇を通じて、ぐっときてしまったのは、ゲリラ（もっと大きく言えば、革命家）を育てる教育者としての、ゲバラの細心さと、厳しさだった。例えばメンバーの間でささいないがみ合いがあれば、本人たちを呼び出して誤解を解いたり、行軍の休憩中も本を読んで勉強するように諭したりする。それはゲリラのメンバーを単なる「兵士」として管理するのでなく、一人一人を人間として把握し、さらには革命家として成長してほしいと願っていたからではないだろうか。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;しかしそれは、仲間意識からくる身内に向けられた温かさでは、決してない。任務を怠ったり、逃亡を企てたり、人民から略奪したりしたメンバーには、処刑を含めて容赦ない厳罰を下す。救うべき対象は「世界のどこかで不正な目にあっている人民」であって、自分たちがその使命のために死ぬことは覚悟している。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;「革命家」という概念と、その理想の“資質”――潔癖なまでにそれを追求したゲバラだからこそ、英雄であり続けるのかもしれない。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;/p&gt;</content:encoded>


<dc:subject>映画・テレビ</dc:subject>

<dc:creator>ことばひろい</dc:creator>
<dc:date>2009-04-19T23:22:27+09:00</dc:date>
</item>
<item rdf:about="http://kotoba-hiroi.cocolog-nifty.com/blog/2009/04/2009411-acac.html">
<title>生とデザイン――かたちの詩学Ⅰ　　2009/4/11　</title>
<link>http://kotoba-hiroi.cocolog-nifty.com/blog/2009/04/2009411-acac.html</link>
<description>〈向井周太郎著、中公文庫、2008年〉 「デザイン」というカタカナ語から、私が思...</description>
<content:encoded>&lt;p&gt;〈向井周太郎著、中公文庫、2008年〉&lt;/p&gt;

&lt;p&gt; 「デザイン」というカタカナ語から、私が思い浮かべるものとは、何よりもまず、身のまわりにあふれる商品のために、誰かが（デザイナーと言われる人たちが）与えた色やかたち、図案のこと。その商品を売る企業にとって、より多くの利益に結びつくように、より多くの消費者がお金を出して手に入れたいと望むように意図されたもの。 &lt;/p&gt;

&lt;p&gt;こういうイメージが一般的なのかどうかは、よく分からない。けれど“design”という単語をカタカナ語でしか移し変えることができなかったように、おそらく日本人にとっては、著者が言うような「デザイン」の概念――形を通して文化を形成してゆく行為――を受け入れる下地は、今でも薄いのではないかと思う。「かくあれ」と理想を思い描く強い力で、可もなく不可もない現実を変えてゆく精神の力。 &lt;/p&gt;

&lt;p&gt;デザインとは「あるべき生活世界の形成である」と著者はいう。 &lt;/p&gt;

&lt;p&gt;――デザインという行為は、基本的に、人間の生命や生存の基盤と安全、日々の生活やくらし方、生き方や生きる方法、生きていくうえでの人々の関係やコミュニケーションや社会形成などにおよぶ、人の誕生から死までの生のプロセス全体と、生命の源泉としての自然環境や、生命あるものとの共生関係などを包容する「あるべき生活世界の形成」に深くかかわるものだ。（p269） &lt;/p&gt;

&lt;p&gt;本書には、バウバウスをはじめてして、モダン・デザインを生み出したヨーロッパの文化的背景も紹介されている。何よりもまず、かの地の芸術家たちの、生命のあるべき姿を求める思索の力の強さに驚くとともに、そこに日本文化とはまったく「異質な」ありようを感じる。日本人にとって、こういう「デザイン」の概念とは、まず輸入し、少し頭でっかちに、手探りで実践してきたものではなかっただろうか。一方で、本書の内容ではないけれど、民芸運動をはじめ日本独自に「モノと生活との関係」について考えてきた歴史についても、読んでみたい気がする。 &lt;/p&gt;</content:encoded>


<dc:subject>書籍・雑誌</dc:subject>

<dc:creator>ことばひろい</dc:creator>
<dc:date>2009-04-11T21:45:09+09:00</dc:date>
</item>
<item rdf:about="http://kotoba-hiroi.cocolog-nifty.com/blog/2009/03/2009320-ed57.html">
<title>建築ジャーナリズム無頼　　2009/3/20</title>
<link>http://kotoba-hiroi.cocolog-nifty.com/blog/2009/03/2009320-ed57.html</link>
<description>〈宮内嘉久、中公文庫、2007年〉 表紙には、“The Story of Arc...</description>
<content:encoded>&lt;p&gt;〈宮内嘉久、中公文庫、2007年〉&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;表紙には、“The Story of Architectual Journalism”という英文タイトルが入っている。あとがきによると、はじめ「物語・戦後建築ジャーナリズム」という名前を考えていたという。それだと、より平明にこの本の性格が表されている。“無頼”というインパクトのある言葉によって、著者自身の、ひとりの編集者、ジャーナリストとしての生き方が前面に出ているように思う。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;加藤周一さんの解説では、この“無頼”という言葉について、中国の古典から日本語に入り、否定的な意味で使われていたが、おそらく第二次大戦後から肯定的な意味を帯びて用いられることもあるようになった――と推測する。そして、敗戦直後の文壇で「無頼派」と呼ばれた作家たちに共通する特徴として、こう記す。「官よりは民、公よりは私、付和雷同せず、権威に屈せず、権力におもねらず、何者に対しても何に出会っても、常に鋭い批判の矢を放つ姿勢を崩さない傾向というべきか」と。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;“無頼”という言葉は、この本に与えられた時点で、どこまで意識的だったかは分からないが、このように鮮やかな意味付けを施されてみると、確かにタイトルは本の内容と相互に浸透しあい、響き合うものだと思わせられる。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;“この本は、「廃墟」に発して「無頼」に徹する日本近代建築史の、また建築についての言説の歴史の、批判的証言である”――解説の終わりに明確な言葉で説明されているので、もうこれ以上に言うことがないようだけれど、著者のふたつ下の世代の、そして編集という仕事のどこかに関わる者の感想として、いくつかのことを書き留めておきたい。ひとつは「人としての一貫性」、そして「編集者は時代と人ともに生きる」ということである。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;1926年生まれの著者は、1945年3月10日の東京大空襲の後の焼野原を、「廃墟」の原風景として心に刻んだ。敗戦後、再開された大学の授業で、てのひらを返したように「デモクラシーの建築」を講ずるある建築家に、心底怒りを覚えたという。「ひとは変る、くるりと一夜にして。敗戦後の焦土の街に、そういう例は充ちあふれていた」――その後、「建築ジャーナリズム」の確立をライフワークとして編集者・ジャーナリストとして生きてきた著者にとって、「変わらないこと」、言い換えれば、「一貫性」とは、何だっただろうか。そして、一貫性を持つ、ということが生き方の一つの規範であるならば、今の私の世代にとって、考えるべきことは何か、と。思い浮かべるべき「焦土の風景」は、ないわけではないだろう。&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;そして、「編集者は時代と人とともに生きる」ということ。本書の全篇に、その時々の状況に対する問題意識と、様々な人との出会いと別れが語られているけれど、巻末の「略年表」と「索引」（人名組織名／書名雑誌名）という形でまとまっていることで、より鮮明になっている。それは、戦後建築ジャーナリズムについての年表と、索引ではあるのだが、同時に著者自身の人生の年表と索引でもある。さて、自分はいま、どんな時代に、どんな人々の中で生きているだろうか。&lt;p&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;/p&gt;

&lt;p&gt;&lt;/p&gt;&lt;/p&gt;</content:encoded>


<dc:subject>書籍・雑誌</dc:subject>

<dc:creator>ことばひろい</dc:creator>
<dc:date>2009-03-23T23:04:32+09:00</dc:date>
</item>


</rdf:RDF>
